『社会的構築主義への招待ー言説分析とは何か』

修論でも、卒論に続いて言説分析を方法論としてとることになりそうなので、今さらながら読んでいる。今思うと、こういう本一冊も読まずに卒論書いたんだからそりゃひどいものになるに決まっている…
構築主義をこんなに分かりやすく噛み砕いて書いている本はなかなかないのではないだろうか?

知識社会学と言説分析の違いとか、最低限のこと分かっておかないと恥ずかしいことにぜったいなる。勉強しよ。

最近考えていること

ようやく修論に関して本腰入れて考え始めて(この時点でダメ院生)、テーマもなんとか定まってきた感じ。来週の発表で、ダメ出しされなければ、多少軌道修正しつつもこの路線でいけるのではないかと踏んでいる。
テーマなんだけれど、卒論でやったことの続きに戻ってきた感じで、なーんだ、結局やりたいことこれだったんじゃん(それなら引き続きちゃんと勉強しとくんだった)という気持ちです。
身体は長らく、わたしにとっての鬼門だったと思う。フェミに「救われた」という最初に感じたのは、やっぱり身体に関するコンプレックスを、今までに積み重ねられてきたフェミニズムの議論がある程度払拭してくれた時だった。
わたしは、こんな内弁慶で、プライドが高くて、勤勉な努力が苦手な自分でも、そんなに嫌いじゃないけど、身体に対する嫌悪感はけっこうひどかった。女性の身体に対する世間の評価は不当に厳しいものだけど、中高生の時のわたしはその世間の視線を内面化して、さらに厳しいものに変化させて自分を見ていたから、もうそれはひどいものだったと思う。ミソジニーの内面化、というのかな。
女性としての自分を固定化させて、世間の(マジョリティ男性からの)視線で自分を評価して見下していたし、性差をびっくりするほど深くて大きいものだと考えて、男性にも必要以上に距離を置いていた。
その不自然さというか、息苦しさは変だとずっと思っていたけど、それを言語化することはできなくて、大学でようやくその言葉を得ることができたと思う。
わたしの身体はわたしのものであって、他人から評価されるものではないし、尊重されるべきものだ。そんな単純なことも、気づくのが難しいのが社会に根付いたジェンダー規範の影響の大きさを示しているのかなと思う。

自己決定権とソーシャルワーク

就活の勉強の一環で、「New Liberal Arts Selection 社会福祉学」を読んでいる。このシリーズは、院試勉強の時に「社会学」のを使ってたなあ。社会学版と同じで、やっぱり説明が丁寧で分かりやすいです。
わたしは大学院生だとは人前で言えないほど、社会学に関しても、社会科学全般に関しても知識がなく勉強不足も甚だしい人間だけれど、社会学クィア関係のコミュニティから学んできたことが、社会福祉の分野にはずいぶん多く存在しているので改めてその意味を反芻しながら読めた。
この本は共著なんだけれど、杉野昭博さんという方が書いている章がどれもとても熱の入った胸に刺す文章だったので、いくつかメモを。

(自己決定権について語られる際の、障害の有無によるダブルスタンダードに関して)「そもそも「自己決定できる人」と「できない人」という二元論そのものが錯誤である。人は誰でも自分1人で自分のことを決めることなどできないし、そのように決めている人すらいない。にもかかわらず、自己決定原則に反問する人たちは、「健常者」と、重度の認知症や知的障害の人には「自己決定能力の差」が存在していると思い込んでいる。(中略)人生の選択とは、自分が出会った人や、関わった人によってもたらされるのであって、もちろん自分で選んではいるが、選択肢は周囲からもたらされている。言い換えれば、人は密室の中で1人だけで自己決定などしておらず、他人との「つながり」のなかで自分の人生を選択しているのである。(p.249)

ソーシャルワーカーを正義の味方のように勘違いしている人もいる。真実はこうである。ソーシャルワークとは、一般の人が「空気」のようにあたりまえに受けている援助が受けられない人に対して、社会的責任の代行者としてそうした「あたりまえの援助」がすべての人に行きわたることを保証する仕事である。(中略)そうした仕事は、問いにマスコミによって「ヒーロー」のように扱われることもあるかもしれないが、多くの場合は、社会的責任の重い地味な仕事である。ソーシャルワーカーは「偉い」わけでもないし、「正義の味方」でもない。誰にでもできる仕事かもしれないが、誰かがやらなければならない仕事を、社会的責任を担って行っているのがソーシャルワーカーなのである。(p.30)


就活をしていて思うことなんだけれど、どことは言わないが血液事業を担ってる企業の志望動機なんかを見ていると、困ってる人を助けたい、という書き口が多くて閉口する(各言うわたしも、これを見て同じ流れでES書いたんだけどね!だから同罪!死にたくなる…)。福祉ってどうしても持てる者が持たざる者に慈悲として分け与えるというイメージがつきまとってしまう。
クィアのアプローチになじんできた自分としては、いや、持てる者が持たざる者に特権を返すのは当然のことで義務である、という考えの方がしっくり来るんだけど…。そういう福祉はなかなか難しいんだろうか。障害者差別や高齢者差別などについて不勉強なので、トンチンカンなことを書いているのかもしれない…引き続き考えていきます。

Shirin Neshatまとめ

"Art in Exile" TED Speech
http://on.ted.com/Neshat

Shirin Neshat|シリン ネシャット 作品など まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2137317163175091801

Turbulent by Shirin Neshat
D
金沢の21世紀美術館で見たやつ。
企画展は、これ。「ボーダーライン展Ⅱ」
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=24&d=1623

ここで、解説もちょっとあるかも?


THE ARTIST’S VOICE SINCE 1981
BOMBSITE
http://bombsite.com/issues/73/articles/2332

アフガン零年/ベッカムに恋して

アフガン零年 [DVD]

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ベッカムに恋して [DVD]

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海角七号 君思う、国境の南

海角七号/君想う、国境の南 [DVD]

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音楽がとっても良く、台湾の雰囲気が味わえるし、バンドを通じて色んなメンバーの思いが垣間見え、重なり合っていく感じはいかにも映画という感じで胸が高鳴る。

台湾と日本の関係性を知らなければ、物語のキーである海角七号のエピソードは理解しづらいのかもしれない。
手紙の書き手の男性のくどくどしさがわたしにはかなりいらっときた。日本占領期に台湾へやってきた書き手の男性は、台湾の女性と恋に落ちて一緒に日本へ戻ることを約束するが、結局自分だけ日本へ逃げ帰る。それはラブレターでどう言い訳しようと、二重の植民地支配でしかなかったのではないか。
シングルマザーが、日本人にひどいことをされたと打ち明ける会話がある。このエピソードは伏線のようで、結局回収されないんだけれど、台湾の人々の日本に対する複雑な感情が垣間見えるエピソードだ。おそらくシングルマザーの女性は、日本人の男性との間に子どもを作ったが男性の方は日本に家庭があったとかなんかで、ふたりを置いてどこかへ行ってしまったんだろうというのが容易に想像できるだけに、胸に嫌なものを残す一言だなと思う。

最後の最後に身も蓋もないことを書くんだけれど、実はヒロインのひとの顔が、まったく好みじゃなくて、見ているのがつらかった。全然お互いの事も見てないし気にしてもなさそうだったメインの二人が突然イイ雰囲気になるところが謎すぎて思わず吹く。一番盛り上がるシーンに入れこめないのはほんと残念だよなー…

ロングタイム・コンパニオン