最近の雑感:組織で働くことと、自分の価値観について

紙の3年日記をつけ始めて今3年目に入ったけど、それ以外でまとまった私的な文章を書くのは久しぶり。twitterはあまり見なくなり、代わりにinstagramに時々投稿するようになったけど、それも長い文章を書くことはほとんどなかった。時々無性に何か書きたいと思うこともあったけど、パソコンに向かうのも億劫な時間が続いていた。

今日は偶然というか必然というか、最近パソコンや勉強用のデスクを新しく買ったのと、休暇で家で散々のんびり過ごしていたことと、夫が残業でまだ帰ってこないという条件がそろって、久々になんか書こうかなという気持ちが蘇ってきた。

パレスチナでは人間性を踏み潰していくような残虐な時間が続いている。それに対する想像力を日々保とうとするが、日常を言い訳に意識が削がれていく自分。

ここ1年の私の悩みは、組織で働くということに付随する色々なことだった。上司とのディスコミュニケーションや、こだわりの強い同僚との接し方とか。このしんどさがどこから来るものなのか、自分のせいなのか相手のせいなのかそれとも組織のルールやあり方のせいなのか。自分や相手に原因があるとしたらそれはどのように改善可能なのか。相手を一段上から見ることで一旦は溜飲を下げたとしても、そんな自分って人としてどうなのかと思い、真に気が晴れることはなかった。

組織に対する自分の意識の置き方を考える時間でもあった。自分にとって働きにくい職場であった時、それをどう受け止めるのか。合わないからやめようと思うのか、変えようと試みるのか、どこもこんなものと折り合いをつけて受け流すのか。自分で意外に感じたが、おそらく私は組織への忠誠心が高い人間なのだった。それは前の職場が当時の私にとってそれなりの拠所になっていて、自分が貢献して組織がうまく回るということへの前向きなイメージがあるからかもしれない。私って、進んで組織の駒になりたがる人間だったんだ、と思った。

今いる職場は、ディスコミュニケーションと、やる気のなさ、不作為と、あきらめと、同調と、馴れ合いや甘えと、そんなもので埋め尽くされていて、全ての歯車が一年でがったがたに噛み合わなくなった。業界的に、そんな風でもなんとなく流れていく日常、これが福祉の、相談援助の現場か、と思うと本当にきつい。そんな職場で、物理的に同じ場所にいても、なんだかぼんやり適当に職務をこなす人たちの方が多数派で、日々環境から極度のストレスを感じている自分にはそんな周りの人々が不思議に思える。(もちろん、周りの人たちも内心は色々思ってるのかもしれないが)

それでもやっぱり人に対して期待することはやめられなくて、人に期待することがなければがっかりすることもないのにと思うけど。多少でも人が変わる可能性を信じること、そう信じて大なり小なり自分なりに何か働きかけたり、時には戦ったりを継続すること、それが自分の中のゆずれない価値としてあることを知った。(人が「変わる」というのは、性格を変えるとか考え方を変えるとかそんな大それたことではなく、話をしてみたら、全部は理解されなくても一部は伝わった、とか、そういうちょっとした通じ合いみたいなものをイメージ。)

人と関わって生きていく以上、人との関わりでほんのちょっとは救われながら、けっこう疲弊しながら生きてくしかないんだなという当たり前のことを痛感する1年だった。自分の中の「そうはいってもこれはゆずれない」みたいなものまで一旦たどりついた気がすることだけが、このしんどかった1年の成果なのだろうか。まったく達成感はないけれど。