NO STRINGS ATTACHED



この邦題、なんとかならんかったのか。ひどすぎる。

久々に映画でも見ようかと思い、映画好きの人のブログをぼんやーりと眺めていたところ、超絶カワイイナタリー・ポートマンが目に入ったため、借りて来てみました。
ナタリーの裸体はほとんど披露されることはなかったのが残念だけど、キュートな笑顔は堪能できたし、だらっとした格好してても、起こってわめいてても可愛い。やっと自分の気持ちに気づいてモーションをかけたのに結局フラれて、運転しながら泣いてドーナツやけ食いしてるところが一番きゅんとした。
ただ、ストーリーとしては、セフレなんて結局無理で、体だけの関係とか言ってそれは意地張ってるだけなんでしょ、素直になればうまくいくのよ!という説教をされているかのような筋書きで、特に何かおもしろいところもなかった。
ただ、アシュトン・カッチャー演じるアダムの、おバカっぷりはなかなかおもしろい。あー、いるいるこういう男!みたいな気分になる。一番のツボは、生理痛でダウナーなエマのために「子宮ヒーリング」と題したコンピレーションCDをわざわざ作ってお見舞いにやってきたシーン。何も間違ったことはしていないんだけど、なんかズレてる。そのズレっぷりが絶妙にきもちわるくって笑えてしまった。

ウーマン ラブ ウーマン

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三部構成のうち、二部までしか見ていないけれどメモ書き。
二部がとても印象的だった。ウーマンリブ勃興時のアメリカの女子大生たちを映像化すると、こんな風になるんだなと。主人公リンダはレズビアンでフェムの女子大生で、同じくビアンの友達3人とシェアハウスをしている。学校ではリブ/フェミニズムの活動にも先導して取り組んでいるが、ある日レズビアンがいることが理由でリブのグループの活動停止が言い渡され、グループからは「まずは男女平等を目指し、そのあとにレズビアンの問題を」と排除された上に後回しにすることを公言される。
怒りと悲しみに任せて行ったビアンバーには、ブッチのビアンがたくさん。そこでダイクのエイミーと恋に落ちる。ヒッピー系のリンダも可愛いけど、もーエイミーがかっこよすぎるのなんのって、授業中胸の高鳴りが抑えられませんでしたw
シェアしている友人たち(レズビアンフェミニスト)たちが、エイミーの「男らしい」格好、振舞いを非難し、「性役割をなくそうとしているところなのに、男の恰好をしているあいつが好きなのか」とリンダを攻め立てる。あなたは自分を受け入れてる、わたしもそうなりたいと、頭でレズビアンフェミニズムをするのではなくちゃんと考えて行こうとするリンダの姿がとっても好印象だった。

いくつかメモ

▼ポピュラーカルチャーの中で、男性→女性、女性→男性の異性装が行われる時の話。女性→男性は、家族(特に父や兄、弟などの男性成員)のために異性装を行う場合が多い。戦闘に行くこととセット。また、同性愛は起こらない。かならず戻ってきて女性に返り、男性と結ばれる。また、異性装をしている間、かならずそれをサポートする味方(男性性)がいる。オスカルにとってのアンドレ、ムーランにとってのムッシュサファイアにとってのチンク、というような。

▼「噂の2人(Children's Hour)」という映画をみた。オードリー・ヘプバーンシャーリー・マクレーンという有名女優二人が主演を張っている。オードリーの美しさはすごいけど、わたしはマクレーンのほうがタイプ。てっきり2人ともお互いに思いあっているのかと思いきや、そこは不確か。マクレーン演じるマーサのほうは自分の気持ちにはっきりと気が付き、絶望して自殺。救われなさすぎ。オードリーのほうは、男性医師と婚約をしているんだけれど、最後の終わり方をみるに、その医師と結ばれるわけでもなさそう。同性同士の関係って、可視化される前はあれぐらい不確かなものなんだろうな(自分だって、同性同士の恋愛が「アリ」だと思いもしなかった中学生のころはあんな感じだったもの)。そして、最後のマーサのお葬式のシーンでは、きりっとした顔をして歩いて出て行くのが印象的。
本筋以外では、子役のメアリーの圧倒的なふてぶてしい演技がすごかったのと、マーサのセリフ「触れられるとたまらないの」という字幕が妙に頭に残っている…もとの英語のセリフはなんだったのだろうか。「キスをした」という嘘の噂だけで経営していた学校がつぶされるというストーリーのなかで、そのセリフだけが身体接触に直に言及しているせいか、なんだか浮いて見えた。

あなたは「当事者」でわたしは「アライ」?

ally[アライ]という単語を、映画祭の近辺で聞くことはほぼないんだけど、もう少しメインストリームに近いイベントとかをみてるとやっぱり使われてはいるみたいだ。

わたしのことをざっくりと説明すると、おそらく「アライ」に分類される可能性も高い人間だと思う。生まれた時に振り分けられた性別は「女」で性自認もまぁ大まかには「女」、そして「男」として生まれて「男」として違和感なく生きている人と「恋人」として現在つき合っている。そんなわたしが、性的マイノリティの映画を数多く上映するクィア映画祭の運営に携わっているわけだ。
へー、理解がある人なのね、理解があるだけじゃなくて自分の時間を性的マイノリティのためにたくさん使うなんて立派なアライじゃないの、となるかもしれない。

アライという単語には賛成できない点がいくつかある。
通常、性的マイノリティに理解がある人、サポートをする人、という意で使われる「アライ」だが、これは背後に存在する権力関係を見えなくする。「レズビアンがいるのは全然いいと思う」「全然受け入れるよ」なんて言っている人は、性的マイノリティの存在を自分が容認してあげるという上から目線で、自分自身が性別とか異性愛主義を日々なぞって強化しているということに無自覚だと思う。「かわいそうな誰か」を応援しているフリなんて誰でもできるし、自らの特権を問われることのない、楽な作業だからだ。

そして、わたしたち/わたしたちと違う人、というように線引きをすることで失われている何か。アライとそうでない人、線を引くことで得をするのは誰なんだろう。
運動をしていく時に、そういう線引きは分断を生んだり、「支援してあげる」という姿勢のような、上から目線のおざなりな関係性を作ってしまうだけに思える。

わたしは「アライ」にあてはまるのかもしれないけど、性においては誰もが当事者で、わたしも当事者の一人で、同じように責任を担い、異性愛やシスジェンダーという特権に乗って毎日を過ごしているということには自覚的でありながら、クィアの運動に携わっていく、そういう姿勢を忘れずにいたい。

今日のメモ

GIDの脱病理化をどう考えるかという時に、妊娠、出産、堕胎といったフェミニズムが扱ってきたモデルが役立つかもしれない。もしくは、美容整形モデル。
クィアというワードは、もともとはヘンタイ/オネエ/BDSM/小児性愛などのラインで輸入され、日本では使われてきた。しかしそこには、男性中心主義を問う視点が欠けているため、フェミニズムをベースにしたクィアという語彙の書き換えを行うのがクィア映画祭の核にあるところ。
・ラベル・カテゴリーで場を作ろうとするときの核心にあるのは、自分のマジョリティ性を問われずに、マイノリティ体験を共有したいという欲望。しかし、そのことを前面に出して場を持つということを普通はできないので、オブラートに包んだ形で言うことになる。例えば「女」で集まりたいという時には、異性愛で日本人で日本国籍をもつ、(一昔前なら)結婚していて妊娠・出産経験のある「女」を指していただろう。

セクシュアリティの多様性と排除

セクシュアリティの多様性と排除 (差別と排除の〔いま〕 第6巻)

セクシュアリティの多様性と排除 (差別と排除の〔いま〕 第6巻)

第一章のヤオイに関する考察だけを読んだ。ヤオイの書き手の側が「わたしはゲイに対する偏見などない、差別などしていない」と言い、ゲイ当事者は「ヤオイは差別だ」と言う。そのすれ違い方に、見覚えがあるな―と思いながら読んだ。

苦しいけれど離れられない

苦しいけれど、離れられない 共依存・からめとる愛

苦しいけれど、離れられない 共依存・からめとる愛

たぶんもっと先にACや共依存についての信田さんの過去の本を読むべきなのだろう。あと、個人の体験に沿っているとしたら、「母が重くてたまらない」あたりか??(笑えない)