あなたは「当事者」でわたしは「アライ」?

ally[アライ]という単語を、映画祭の近辺で聞くことはほぼないんだけど、もう少しメインストリームに近いイベントとかをみてるとやっぱり使われてはいるみたいだ。

わたしのことをざっくりと説明すると、おそらく「アライ」に分類される可能性も高い人間だと思う。生まれた時に振り分けられた性別は「女」で性自認もまぁ大まかには「女」、そして「男」として生まれて「男」として違和感なく生きている人と「恋人」として現在つき合っている。そんなわたしが、性的マイノリティの映画を数多く上映するクィア映画祭の運営に携わっているわけだ。
へー、理解がある人なのね、理解があるだけじゃなくて自分の時間を性的マイノリティのためにたくさん使うなんて立派なアライじゃないの、となるかもしれない。

アライという単語には賛成できない点がいくつかある。
通常、性的マイノリティに理解がある人、サポートをする人、という意で使われる「アライ」だが、これは背後に存在する権力関係を見えなくする。「レズビアンがいるのは全然いいと思う」「全然受け入れるよ」なんて言っている人は、性的マイノリティの存在を自分が容認してあげるという上から目線で、自分自身が性別とか異性愛主義を日々なぞって強化しているということに無自覚だと思う。「かわいそうな誰か」を応援しているフリなんて誰でもできるし、自らの特権を問われることのない、楽な作業だからだ。

そして、わたしたち/わたしたちと違う人、というように線引きをすることで失われている何か。アライとそうでない人、線を引くことで得をするのは誰なんだろう。
運動をしていく時に、そういう線引きは分断を生んだり、「支援してあげる」という姿勢のような、上から目線のおざなりな関係性を作ってしまうだけに思える。

わたしは「アライ」にあてはまるのかもしれないけど、性においては誰もが当事者で、わたしも当事者の一人で、同じように責任を担い、異性愛やシスジェンダーという特権に乗って毎日を過ごしているということには自覚的でありながら、クィアの運動に携わっていく、そういう姿勢を忘れずにいたい。

今日のメモ

GIDの脱病理化をどう考えるかという時に、妊娠、出産、堕胎といったフェミニズムが扱ってきたモデルが役立つかもしれない。もしくは、美容整形モデル。
クィアというワードは、もともとはヘンタイ/オネエ/BDSM/小児性愛などのラインで輸入され、日本では使われてきた。しかしそこには、男性中心主義を問う視点が欠けているため、フェミニズムをベースにしたクィアという語彙の書き換えを行うのがクィア映画祭の核にあるところ。
・ラベル・カテゴリーで場を作ろうとするときの核心にあるのは、自分のマジョリティ性を問われずに、マイノリティ体験を共有したいという欲望。しかし、そのことを前面に出して場を持つということを普通はできないので、オブラートに包んだ形で言うことになる。例えば「女」で集まりたいという時には、異性愛で日本人で日本国籍をもつ、(一昔前なら)結婚していて妊娠・出産経験のある「女」を指していただろう。

セクシュアリティの多様性と排除

セクシュアリティの多様性と排除 (差別と排除の〔いま〕 第6巻)

セクシュアリティの多様性と排除 (差別と排除の〔いま〕 第6巻)

第一章のヤオイに関する考察だけを読んだ。ヤオイの書き手の側が「わたしはゲイに対する偏見などない、差別などしていない」と言い、ゲイ当事者は「ヤオイは差別だ」と言う。そのすれ違い方に、見覚えがあるな―と思いながら読んだ。

苦しいけれど離れられない

苦しいけれど、離れられない 共依存・からめとる愛

苦しいけれど、離れられない 共依存・からめとる愛

たぶんもっと先にACや共依存についての信田さんの過去の本を読むべきなのだろう。あと、個人の体験に沿っているとしたら、「母が重くてたまらない」あたりか??(笑えない)

ディスアビリティ・スタディーズ

アイデンティティ・ポリティクスに関する英語の論文を読まないといけないのだが、前提知識がなさ過ぎて全く読めない。ということで、日本語文献をあさっていたら必然的に障害学にたどりつくことに。
障害学は、障害者の視点から従来の障害者研究(福祉や医療などの対象として、何かを与えるという観点に立つ)を批判・再構築して行こうとしていくものだ。
障害学の誕生は1970年。フィンケルシュタインという障害当事者。基本的な概念は「社会モデル」と言って、「個人モデル」に対する対比としてのタームである。障害をその人自身に帰するのではなく、その人たちが生きる社会が彼らを障害者にしている、という考え方。これは障害をどう捉えるかという従来の障害研究からのパラダイム転換でもある。
そして、個人モデルは「障害者役割」と神話的でもある。わたしたちの中にある、障害者のイメージは彼らの行動を制限し、抑圧する。それらからの解放も、障害学には含まれている。

参考:松波めぐみ, 2003「「障害者問題を扱う人権啓発」再考―「個人-社会モデル」「障害者役割」を手がかりとして―」『部落解放研究』151号
http://www.arsvi.com/2000/030425mm.htm

クィア・スタディーズ

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

忘備録。レズビアン・ゲイスタディーズからクィアスタディーズへと移っていく流れが分かっておもしろい。
クィアという単語をアカデミアにおいて最初に使った人、テレサ・デ・ラウレティスのいう、クィアの意味合いがおもしろい。他者との差異だけでなく自己の中にもある無数の差異に焦点を当てる、という話。
ラウレティスが主張したのは、ゲイレズビアンとまとめて言われてしまうけれど、そのゲイとレズビアンの間の差異だったり、またセクシュアリティだけでなく、他の変数、例えば人種を合わせて考えることの重要性。今まさに映画祭で考えようとしていることでもあるので、おもしろいなと。

サバイバー・フェミニズム

サバイバー・フェミニズム

サバイバー・フェミニズム

マイノリティーに自分の思うマイノリティー像を(悪気がなくても)押し付けてしまうこと、それが暴力的な抑圧になることはよくある。たぶん自分もしてる。読んでいてなんだか自分のことを言われているようで落ち着かない気持ちになる。日本の権威主義的傾向の話なんかもそう。
あとは詩とか演劇とかで伝えるということの可能性かなぁ。最初に載せられている詩は一番インパクトがあった。
とにかく必死に著者が考えてきた軌跡が垣間見えて凄味がある。性暴力に関する今ある議論は、こういう血の滲むような過程があって、打ち立てられた理論なのだと。