Buzzing noise.

散らかった頭の中をさらに書き散らかしています

ラジオ・コバニ

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瓦礫を重機で動かした間から無造作に飛び出る遺体の腕や足。それを言葉なくじっと見つめる子どもや住人たち。美しい街が破壊され、色のなくなった風景。街を守るために女性も武器を持って闘う。撃った相手(IS側)は小さな子どもの兵士だったことを撃った後に気づき、忘れられないと語るコバニの元兵士は、陰鬱な表情をしている。戦争に勝者などいないというディロバンの言葉が重い。可愛らしいポスターだけど、中身は辛く深刻だ。街の復興がはじまり、ラジオから流れるディロバンの優しい語りかけや音楽に少しは救われるんだけれど。シリア内戦の悲惨さを今ようやく知った映画だった。

君の名前で僕を呼んで

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久々に2回観に行った映画。「女の子ものがたり」以来かな。

舞台は1980年代、北イタリアのどこか。主人公のエリオ一家はインテリ貴族って感じ。あんな夏の過ごし方を一生に一度でいいからしてみたいと日本に生まれ育った人は思うんじゃないかなあ。エリオは17歳なんだけど何ヶ国語もしゃべるし歴史は詳しいしピアノ弾くし編曲するし、知性と教養のかたまり。なのにあんまり自信なさげで内気な感じなのがまたかわいくて、魅力的でもある。

一緒に夏を過ごすうちにエリオはオリバーのことを好きになるという筋書きで、カテゴリー的にはゲイ映画になるのかもしれないけど、同性を好きになってしまった、どうしようという葛藤はエリオ側には全くない。ただ純粋にオリバーに惹かれ近づきたいと願う。エリオのパパママがすごく進歩的で理解があるのがまたいい。特にママ、めっちゃ美人でセクシー。いわゆる悪役が誰もいない映画だなあと思う。

音楽と映像が美しくてぎゅっと胸を締め付ける。ぎこちなく絡み合う視線、核心にふれない言葉のやりとり、相手に触れた時の喜び。二人で過ごす時間が濃密で苦しいほど幸せで、幸せであればあるほど別れの時には心が壊れてしまいそうに痛む。2時間の中で、恋愛の一通りの感情を蘇らせてくれる感じがした。何よりもエンドロールのエリオの表情の演技が圧巻。

エリオのパパのセリフは少し長い感じもしたけど、この映画のメッセージを集約した感じかな。

サントラと原作をKindleで買っちゃった。英語はわかりやすい感じなので、頑張って読みきれるといいな。

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最近観た映画とか、小説の実写化とか

www.sato-eeyan.com

今自分が生活困窮している人々と関わっていて思うことだけど、こういう場所があるって本当に救われることだ。でも、これを続けていくことがどれだけ大変で難しいか…。

子どもたちの居場所を作るために、わたしは何ができるのだろうか。

 

www.moviola.jp

ものすごく疲れている時に観に行ったら、途中寝てしまった。とにかく自然が雄大で、人間がちっぽけなんだけど一生懸命で、今自分が生きているしがらみだらけの社会とは別世界。 

 

narratage.com

わたしは嵐ファンだけど、ナラタージュの葉山先生は、潤くんじゃないよ。。なぜそうなった。潤くんじゃないんだよ…。

この本、初読は中学生ぐらいの時なんだけど、今となっては主人公・泉の歳も越えてしまったことに気づいて愕然とした。葉山先生の身勝手さも、柚子ちゃんの自死の理由も、今になって想像できるようになった気がする。でも想像できるようになったからと言って全然嬉しくなくて、大人になるって悲しいなあという気持ちになる。

被災地に行っても女は役に立たないのか

熊本での地震の報道に日々胸を痛めています。即座に動けるような行動力も体力も持ち合わせていないけれど、自分のできることをやっていきたい。

 

さて、わたしは上記のお題に関して自分に起こった出来事にかなりショックを受けています。

わたしの職場から被災地の避難所に職員を順番に派遣するようです。ようです、というのは、わたしには直接話が来なかったからはっきりした情報は聞けていないからこういう表現になっているのだが…。

男性職員だけが別室へまとめて呼び出され、被災地に誰か行かないか?という話がされたみたいです。募集要項を後でちらっと見せてもらったところ、要件は「勤続1年以上で車が運転できる」ということだけでした。

男性職員たちが呼び出されて話があったあと戻ってきて、誰が行くか、特別手当がつくんじゃないかという話題で盛り上がっていました。女性職員が呼ばれなかったのは、ある人が言うには「力仕事もあるし女性はちょっと難しいだろうということで」、男性だけが呼ばれたと。

わたしは正直言って、かなりショックを受けました。誰が女性職員を対象から外すという決定したかはよく分からないけれど、職場の雰囲気としてみんながそれに納得してる感じなのが意味がわからなかった。

確かに、業務内容は物資の移送とは書いてあったけれど、物資の移送は皆で協力してやることで、女性は力が弱いから要らないと短絡的に決定できるものなのか。

わたしは「女性ならではの視点」という言い方は嫌いだけど、被災地では女性やマイノリティに対する配慮が普段以上に求められると思う。女性の身体を持っている人や、女性として日々生きている人こそできる支援もあるはずだ。

わたしには、この出来事は、男性社会が女性全般を庇護すべき立場に固定し、女性が能力を発揮する場を奪い、経験を積む機会を奪う、分かりやすい例に思える。

初期段階の応援派遣だから、力仕事が中心で体力のある人が必要というなら、そのように女性職員含めた皆に説明してほしかった。最終的に誰を派遣するか決めるのは上の人たちだとしても、手を挙げる権利ぐらいは平等に与えられてもいいのではないか?最初から何の説明もされずに排除されるって、おかしいと思うなあ。

 

わたしは同期の男子たちが、被災地派遣に手を挙げるかどうか盛り上がってるのを見て、正直悔しかったし悲しかった。なぜ自分が女だというだけでそこの輪に入れないのだろうと思う。

 

男性だけが前線に行って女性は後方支援で、ってまるで戦争じゃんね。

 

という話を帰宅して母親に話したのだけど、思いっきり批判されてしまいさらに悲しくなった。女性はどうしても体力面では劣るし、トイレとか着替えとか気を使うことも多いし、雑魚寝だと男性たちが気を使って休まらないかもしれないし(???)、生理用品とか女性特有の荷物も増えるしそういうことを考慮の上で、うちの職場の上層部は女子を排除したんじゃないかと。そういう「気遣い」を、「女性をなめてる」という視点から批判的にしか見れないわたしって偏り過ぎでおかしいんだって。もう少し状況が落ち着いてくれば、女性が能力を発揮できる場面も増えてくるはずだからそういう募集を待てと言うわけ。

 

 

まー、そもそもわたし車の運転できないから要件に当てはまらないけど。泣

映画「ヤクザと憲法」を観た

映画『ヤクザと憲法』公式サイト

観たのは結構前なんだけど、忘れないように感想を。暴力団についてもともと興味があり、楽しみにしていた映画。社会的な排除に関する映画だった、と思う。

仕事柄、元暴のひとと関わることもあるし、貧困との関連も肌で感じることが多い。「暴力団」という名前で括られて無条件に排除と差別の対象とされるものの実態を知りたいし、その排除を是とする社会のあり方ってどうなんだろう?とずっと思っていた。

この映画は大阪のある暴力団に密着して撮られたドキュメンタリーだ。モザイクは原則なし。ちゃんと顔を出して話をするヤクザの姿をみることができる。

まだ若い新人(赤の他人)をまるで親子のように面倒を見る組員。暴力や犯罪を美化するつもりはないけど、ヤクザの日常を垣間見ると、彼らも普通の同じ人間であることを感じられる。暴力団が、表の社会で居場所を見つけられなかった、排除された人の受け皿となっている現実が胸に迫る。

暴力団を社会から現在のように法律で取り締まって排除していくことが、正解だとは思えない。社会からドロップアウトしてしまうひとをどうやってまた社会へつなげていけるか、居場所を保障できるか、ということがわたしたちに問われているのだと思う。社会が多様化してドロップアウトの形も多様化しているから、容易に解決できることではないけれど…。指定暴力団とひとくくりにして排除の対象とすることで、地域での居場所や地域とのつながりはさらに少なくなり、犯罪はさらに地に潜っていくことは想像に難くない。

このあたり、監督やプロデューサーの方も色々インタビューで話されているので面白いです。興味ある方はどうぞ。

social-trend.jp

jp.vice.com

余談なのですが、シネマテークでの初回上映を観に行ったら監督とプロデューサーのトークも聞くことができ面白かった。元警察官の人がトークのゲストで来ていたんだけど、トークの中で「暴力団は必要悪だという人もいるが、わたしは暴力団は絶対悪だと思っている」と断言していて、この映画見てそういう結論になるんやー、とシラケてしまったwわたしはこの発言を心底怖いと思ったし、やっぱ警察ってこういうひとがなるんだなーと。。(ちなみに近くの席に座ってた人でこの発言に対して即座に「何言ってんだこの野郎」と小さな声で凄んでるその筋っぽい人がいたのですが、心の中ですごい同意…)。

あと、映画の中で暴力団の部屋に警察が立ち入るシーンがあるんだけど、そこでの警察のカメラへの凄み方がもうどっちがヤクザだよ、っていう柄の悪さで笑えるほどでした。いや、あの感じ知ってるよ。デモとか運動の現場とかで弾圧してくる時の警察とか公安そのもの!すごい既視感だった…。ああいうのが、正義を振りかざして人権ていう概念を踏み潰していく現実が、怖い。

職場の義理チョコ問題・その後

職場の何人かと話をしたけれども、まぁわたしの言いたい論点は伝わらず…

「こんな面倒な慣習やめたらいいよね」という点では、半分ぐらいの人の賛同は得られるけれど、「ジェンダーの観点からみて、義理チョコの強制はよくないよね」という意見は全く理解されない悲しさ。結局今年も、強制義理チョコは執り行われるようです。義理チョコ問題について何人かと話す中で、女性の先輩方と少し微妙な雰囲気になってしまったりして…。でも、女性の中でこうやって対立しあうってのも本来はおかしくて、男性の方が、要らないよっていえば済む話だと思うんだよな。大方の女性陣は、「あげないと何か言われるんじゃないか」「気が利かないと思われるんじゃないか」という空気を感じ取って義理チョコをあげるわけなので。

 

男女という制度に、わたしたちはあらゆる面で縛られていて、急にその制度にたてつこうとしても無理なことはわかってるんだけど。

男女という制度について、どう話せばわかってもらえるのだろうか。話す練習を全然してこなかったのだなとこれまでの自分を後悔している。

そもそものことを言えば、なぜわたしが勝手に「女」カテゴリーに勝手に分けられるのか。それが不愉快だ。わたしは自分が「女」だと表明していないのに、勝手にカテゴライズされて、勝手にそのカテゴリーに付随する役割を強制されて。こんなの嫌だ。この怒りを、ちょっとずつでも言語化していくのがわたしの課題。

 

職場の強制義理チョコはお茶汲みと似ている

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働き始めてもうすぐ一年。職場ではじめてのバレンタインデーがやってくる。

職場の課内では毎年バレンタインに女性陣から男性陣にお菓子を配っていると先輩から話をされた。一番若い女性職員が他の女性の先輩から集金し、時間休をとって買い出しに行き、男性陣に配る。もう長いことこの慣習は続いているという。

わたしは正直に言って、この慣習を聞いた時にすごく驚いて、馬鹿馬鹿しいと思い、こんなくだらないことをやっている職場があるのかと思った。でも友人に聞いてみるとなんだかどこも大変なようで…。こんなことをやらなければならない日本の職場って、まだまだジェンダーの観点から言って問題山積みだなあと改めて思わされた。

 

わたしが女であることと、チョコレートを配ることは本質的に何の関係もないことだ。職場では性別は関係なく同じ仕事をしていて、少なくとも表立って「女だから」「男だから」という理由で仕事内容が変わるということはない。社会情勢的にもそういう方向に向かっているはずだし、法律的にもそれは禁じられているはずだ。

でも実際は、重いものを男性に運ばせるとか、日常茶飯事だし、女性だから当然のように職場のおじさんのご機嫌取りの一環としてセクハラを受け流さないといけなかったりとか、「女だから」「男だから」なんてもう仕事以外でもそこらじゅうにあふれていて、もう一個一個立ち向かっていたら精神が持たないほどだ。でも一個受け流すごとにわたしの尊厳は少しずつ削られるし、傷ついていく。

 いくらバレンタインが職場のコミュニケーションを促進するとしても、わたしは「女だから」という理由でチョコレートを男性陣に配ることを、強制されるのは嫌だ。「女だから」何をするべきかを他者から規定されることをわたしは好まない。バレンタインという行事があるがゆえに、職場で、男と女という意味のない線引きを改めてされることが、わたしはいやだ。

義理チョコという制度は、かつて女性たちが職場でさせられていたお茶汲みに似ているような気がする(今もさせられている人もいるだろうけど。残念なことに)。当然のように女性にだけ科せられていて、職場の円滑なコミュニケーションを促進するとか職場の雰囲気を和らげるとかそういった理由で正当化される。「やっぱり女の子から渡されると嬉しいね」なんてセクハラめいた言葉を言われたりしながら、わたしたちはこの業務を遂行しなければならない。業務の一環のようで、時間給をとったり余暇を使ってお菓子を買いに行くことを強制される。「いやだ」と拒否すると、こんな小さなことでぐちぐち言ってうるさい、面倒なひとだと思われる。でも「こんな小さなこと」は、決して男性の仕事にはならないのだ。

こんなくだらない義理チョコ制度、どうやって廃止したらいいのでしょうか。

 

togetter.com