被災地に行っても女は役に立たないのか

熊本での地震の報道に日々胸を痛めています。即座に動けるような行動力も体力も持ち合わせていないけれど、自分のできることをやっていきたい。

 

さて、わたしは上記のお題に関して自分に起こった出来事にかなりショックを受けています。

わたしの職場から被災地の避難所に職員を順番に派遣するようです。ようです、というのは、わたしには直接話が来なかったからはっきりした情報は聞けていないからこういう表現になっているのだが…。

男性職員だけが別室へまとめて呼び出され、被災地に誰か行かないか?という話がされたみたいです。募集要項を後でちらっと見せてもらったところ、要件は「勤続1年以上で車が運転できる」ということだけでした。

男性職員たちが呼び出されて話があったあと戻ってきて、誰が行くか、特別手当がつくんじゃないかという話題で盛り上がっていました。女性職員が呼ばれなかったのは、ある人が言うには「力仕事もあるし女性はちょっと難しいだろうということで」、男性だけが呼ばれたと。

わたしは正直言って、かなりショックを受けました。誰が女性職員を対象から外すという決定したかはよく分からないけれど、職場の雰囲気としてみんながそれに納得してる感じなのが意味がわからなかった。

確かに、業務内容は物資の移送とは書いてあったけれど、物資の移送は皆で協力してやることで、女性は力が弱いから要らないと短絡的に決定できるものなのか。

わたしは「女性ならではの視点」という言い方は嫌いだけど、被災地では女性やマイノリティに対する配慮が普段以上に求められると思う。女性の身体を持っている人や、女性として日々生きている人こそできる支援もあるはずだ。

わたしには、この出来事は、男性社会が女性全般を庇護すべき立場に固定し、女性が能力を発揮する場を奪い、経験を積む機会を奪う、分かりやすい例に思える。

初期段階の応援派遣だから、力仕事が中心で体力のある人が必要というなら、そのように女性職員含めた皆に説明してほしかった。最終的に誰を派遣するか決めるのは上の人たちだとしても、手を挙げる権利ぐらいは平等に与えられてもいいのではないか?最初から何の説明もされずに排除されるって、おかしいと思うなあ。

 

わたしは同期の男子たちが、被災地派遣に手を挙げるかどうか盛り上がってるのを見て、正直悔しかったし悲しかった。なぜ自分が女だというだけでそこの輪に入れないのだろうと思う。

 

男性だけが前線に行って女性は後方支援で、ってまるで戦争じゃんね。

 

という話を帰宅して母親に話したのだけど、思いっきり批判されてしまいさらに悲しくなった。女性はどうしても体力面では劣るし、トイレとか着替えとか気を使うことも多いし、雑魚寝だと男性たちが気を使って休まらないかもしれないし(???)、生理用品とか女性特有の荷物も増えるしそういうことを考慮の上で、うちの職場の上層部は女子を排除したんじゃないかと。そういう「気遣い」を、「女性をなめてる」という視点から批判的にしか見れないわたしって偏り過ぎでおかしいんだって。もう少し状況が落ち着いてくれば、女性が能力を発揮できる場面も増えてくるはずだからそういう募集を待てと言うわけ。

 

 

まー、そもそもわたし車の運転できないから要件に当てはまらないけど。泣

映画「ヤクザと憲法」を観た

映画『ヤクザと憲法』公式サイト

観たのは結構前なんだけど、忘れないように感想を。暴力団についてもともと興味があり、楽しみにしていた映画。社会的な排除に関する映画だった、と思う。

仕事柄、元暴のひとと関わることもあるし、貧困との関連も肌で感じることが多い。「暴力団」という名前で括られて無条件に排除と差別の対象とされるものの実態を知りたいし、その排除を是とする社会のあり方ってどうなんだろう?とずっと思っていた。

この映画は大阪のある暴力団に密着して撮られたドキュメンタリーだ。モザイクは原則なし。ちゃんと顔を出して話をするヤクザの姿をみることができる。

まだ若い新人(赤の他人)をまるで親子のように面倒を見る組員。暴力や犯罪を美化するつもりはないけど、ヤクザの日常を垣間見ると、彼らも普通の同じ人間であることを感じられる。暴力団が、表の社会で居場所を見つけられなかった、排除された人の受け皿となっている現実が胸に迫る。

暴力団を社会から現在のように法律で取り締まって排除していくことが、正解だとは思えない。社会からドロップアウトしてしまうひとをどうやってまた社会へつなげていけるか、居場所を保障できるか、ということがわたしたちに問われているのだと思う。社会が多様化してドロップアウトの形も多様化しているから、容易に解決できることではないけれど…。指定暴力団とひとくくりにして排除の対象とすることで、地域での居場所や地域とのつながりはさらに少なくなり、犯罪はさらに地に潜っていくことは想像に難くない。

このあたり、監督やプロデューサーの方も色々インタビューで話されているので面白いです。興味ある方はどうぞ。

social-trend.jp

jp.vice.com

余談なのですが、シネマテークでの初回上映を観に行ったら監督とプロデューサーのトークも聞くことができ面白かった。元警察官の人がトークのゲストで来ていたんだけど、トークの中で「暴力団は必要悪だという人もいるが、わたしは暴力団は絶対悪だと思っている」と断言していて、この映画見てそういう結論になるんやー、とシラケてしまったwわたしはこの発言を心底怖いと思ったし、やっぱ警察ってこういうひとがなるんだなーと。。(ちなみに近くの席に座ってた人でこの発言に対して即座に「何言ってんだこの野郎」と小さな声で凄んでるその筋っぽい人がいたのですが、心の中ですごい同意…)。

あと、映画の中で暴力団の部屋に警察が立ち入るシーンがあるんだけど、そこでの警察のカメラへの凄み方がもうどっちがヤクザだよ、っていう柄の悪さで笑えるほどでした。いや、あの感じ知ってるよ。デモとか運動の現場とかで弾圧してくる時の警察とか公安そのもの!すごい既視感だった…。ああいうのが、正義を振りかざして人権ていう概念を踏み潰していく現実が、怖い。

職場の義理チョコ問題・その後

職場の何人かと話をしたけれども、まぁわたしの言いたい論点は伝わらず…

「こんな面倒な慣習やめたらいいよね」という点では、半分ぐらいの人の賛同は得られるけれど、「ジェンダーの観点からみて、義理チョコの強制はよくないよね」という意見は全く理解されない悲しさ。結局今年も、強制義理チョコは執り行われるようです。義理チョコ問題について何人かと話す中で、女性の先輩方と少し微妙な雰囲気になってしまったりして…。でも、女性の中でこうやって対立しあうってのも本来はおかしくて、男性の方が、要らないよっていえば済む話だと思うんだよな。大方の女性陣は、「あげないと何か言われるんじゃないか」「気が利かないと思われるんじゃないか」という空気を感じ取って義理チョコをあげるわけなので。

 

男女という制度に、わたしたちはあらゆる面で縛られていて、急にその制度にたてつこうとしても無理なことはわかってるんだけど。

男女という制度について、どう話せばわかってもらえるのだろうか。話す練習を全然してこなかったのだなとこれまでの自分を後悔している。

そもそものことを言えば、なぜわたしが勝手に「女」カテゴリーに勝手に分けられるのか。それが不愉快だ。わたしは自分が「女」だと表明していないのに、勝手にカテゴライズされて、勝手にそのカテゴリーに付随する役割を強制されて。こんなの嫌だ。この怒りを、ちょっとずつでも言語化していくのがわたしの課題。

 

職場の強制義理チョコはお茶汲みと似ている

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働き始めてもうすぐ一年。職場ではじめてのバレンタインデーがやってくる。

職場の課内では毎年バレンタインに女性陣から男性陣にお菓子を配っていると先輩から話をされた。一番若い女性職員が他の女性の先輩から集金し、時間休をとって買い出しに行き、男性陣に配る。もう長いことこの慣習は続いているという。

わたしは正直に言って、この慣習を聞いた時にすごく驚いて、馬鹿馬鹿しいと思い、こんなくだらないことをやっている職場があるのかと思った。でも友人に聞いてみるとなんだかどこも大変なようで…。こんなことをやらなければならない日本の職場って、まだまだジェンダーの観点から言って問題山積みだなあと改めて思わされた。

 

わたしが女であることと、チョコレートを配ることは本質的に何の関係もないことだ。職場では性別は関係なく同じ仕事をしていて、少なくとも表立って「女だから」「男だから」という理由で仕事内容が変わるということはない。社会情勢的にもそういう方向に向かっているはずだし、法律的にもそれは禁じられているはずだ。

でも実際は、重いものを男性に運ばせるとか、日常茶飯事だし、女性だから当然のように職場のおじさんのご機嫌取りの一環としてセクハラを受け流さないといけなかったりとか、「女だから」「男だから」なんてもう仕事以外でもそこらじゅうにあふれていて、もう一個一個立ち向かっていたら精神が持たないほどだ。でも一個受け流すごとにわたしの尊厳は少しずつ削られるし、傷ついていく。

 いくらバレンタインが職場のコミュニケーションを促進するとしても、わたしは「女だから」という理由でチョコレートを男性陣に配ることを、強制されるのは嫌だ。「女だから」何をするべきかを他者から規定されることをわたしは好まない。バレンタインという行事があるがゆえに、職場で、男と女という意味のない線引きを改めてされることが、わたしはいやだ。

義理チョコという制度は、かつて女性たちが職場でさせられていたお茶汲みに似ているような気がする(今もさせられている人もいるだろうけど。残念なことに)。当然のように女性にだけ科せられていて、職場の円滑なコミュニケーションを促進するとか職場の雰囲気を和らげるとかそういった理由で正当化される。「やっぱり女の子から渡されると嬉しいね」なんてセクハラめいた言葉を言われたりしながら、わたしたちはこの業務を遂行しなければならない。業務の一環のようで、時間給をとったり余暇を使ってお菓子を買いに行くことを強制される。「いやだ」と拒否すると、こんな小さなことでぐちぐち言ってうるさい、面倒なひとだと思われる。でも「こんな小さなこと」は、決して男性の仕事にはならないのだ。

こんなくだらない義理チョコ制度、どうやって廃止したらいいのでしょうか。

 

togetter.com

 

今週のお題「20歳」

今週のお題「20歳」

もう5年前。まだ5年前。

小学校、中学校にはあまりいい思い出はなく、不特定多数が集まる場所での振る舞い方がわからずテンパることが多いので、成人式には行かなかった。

振袖を着る気もなかったけれど、写真だけでも撮ってほしいと母に言われて、後日家族写真を撮りに行ったときに振袖を着た。あまり似合っていない気がしてつらかった。振袖を着た時の写真が実家に飾ってあるけど、あまり見たい気分にはならない。

女の子らしくふるまったり着飾ったりすることにすごく抵抗がある。昔も今も。でもかわいいものは好きだ。リボンのモチーフとかレースとか小花柄とかひらひらしたスカートとか。ロリータのようなお洋服も着てみたいなとひそかに思っている。

でも自分が何を着たいかより、周りにどうみられるかを気にする自分がいる。いや、周りが実際どう思うかではなくて、「周りにこう思われるだろう」という推測、自分が自分を品定めしているだけ、なのだけど。自分が着たいと思っている服を着こなせていない自分を見る瞬間が最高に傷つく。自分をありのままに受容するということが、20歳の時も、今も、わたしにとっては本当にむずかしいことだ。

 

お嬢様聖水という商品が普通に売られている日本という国が気持ち悪い

www.ojyosama.jp

 わたしが毎日乗り換えで使う駅に、この広告がでかでかと貼られているので非常に不愉快。期間限定だとは思うんだけれど、なかなか撤去されない。気持ちが悪い。

女性がターゲットのエナジードリンクという宣伝だけど、例えば使われている絵とか、そのネーミングとか、メタメッセージは全く別の物のように思う。

聖水が女性のおしっこを意味することぐらい、この世の中生きていればなんとなく知る機会があるものだ、と思う。セクシュアルな意味で、そういうものに興奮を覚える人がいるだろうことは想像できるし、性的な趣味は他人に危害を与えない限り自由だとわたしは思っているので特に否定しない。

だけど、公共の場にでかでかと書かれるのは全く別の話。パッケージに描かれた女性の絵は裸体だし、なんか若い感じの美少女だし。聞くところによるとドリンクの色は黄金色なんだとか。女性に対する勝手極まりないファンタジーを、「女性向けドリンク」というパッケージで隠して(隠れていないけど)女性たち若い女の子たちも目に入る場所でたくさん宣伝して消費する。その図々しさが本当に気持ちが悪い。これにOKを出してしまう企業が気持ち悪いし、それを店頭に置いてしまうコンビニが気持ち悪い。

女性がターゲットという宣伝に反して男性に大ウケであることに関し、メーカーは「意図せぬ方向の反響」とか言ってるらしいんだけど、本当かい、これ?

なんて、毎日通勤の行き帰りでもやもやと考えています。

早く撤去してほしいな。

 

北原さんのこんな記事もありました。

dot.asahi.com

郵便局には悪いけど、年賀状は来ないほうが心の平穏を保てる

一番年賀状を書いていた時がたぶん小中学生の頃。好きな人に住所を聞いて、年賀状のメッセージに何を書くかに延々頭を悩ませていたあの頃…わたしかわいかったなー。

大学生になって下宿生活が始まると、新しい住所をあまり周りに知らせなかったこともあってますます年賀状が来なくなったし自分も書かなくなった。

そして、今年1月1日に来たわたし宛の年賀状は、嵐のファンクラブからの年賀状、ただ1枚だったwww

 

両親宛に届く年賀状には、家族写真が載っていたり子どもや孫が生まれたという報告、子どもが有名大学に進学したという報告、子どもが結婚したという報告なんかが書き添えられている。

それを見て両親は、うらやましそうな様子を見せる。わたしや妹に対して、恋愛や結婚、出産を促すような言葉をかけてくる。

年賀状がもし日本の家族規範を強化するだけのものなら、年賀状なんて来ないほうがいい。年賀状にはマジョリティの考えるスタンダードな家族像が投影されている。それに沿えない自分は少数派であること、社会から祝福されないことをひしひしと感じさせられる。

まあ、年賀状でされていたような近況報告の場はFacebookみたいなSNSに移りつつあるので、年賀状が来なくなったところで特に状況はよくならないんだけどな。