自己決定権とソーシャルワーク

就活の勉強の一環で、「New Liberal Arts Selection 社会福祉学」を読んでいる。このシリーズは、院試勉強の時に「社会学」のを使ってたなあ。社会学版と同じで、やっぱり説明が丁寧で分かりやすいです。
わたしは大学院生だとは人前で言えないほど、社会学に関しても、社会科学全般に関しても知識がなく勉強不足も甚だしい人間だけれど、社会学クィア関係のコミュニティから学んできたことが、社会福祉の分野にはずいぶん多く存在しているので改めてその意味を反芻しながら読めた。
この本は共著なんだけれど、杉野昭博さんという方が書いている章がどれもとても熱の入った胸に刺す文章だったので、いくつかメモを。

(自己決定権について語られる際の、障害の有無によるダブルスタンダードに関して)「そもそも「自己決定できる人」と「できない人」という二元論そのものが錯誤である。人は誰でも自分1人で自分のことを決めることなどできないし、そのように決めている人すらいない。にもかかわらず、自己決定原則に反問する人たちは、「健常者」と、重度の認知症や知的障害の人には「自己決定能力の差」が存在していると思い込んでいる。(中略)人生の選択とは、自分が出会った人や、関わった人によってもたらされるのであって、もちろん自分で選んではいるが、選択肢は周囲からもたらされている。言い換えれば、人は密室の中で1人だけで自己決定などしておらず、他人との「つながり」のなかで自分の人生を選択しているのである。(p.249)

ソーシャルワーカーを正義の味方のように勘違いしている人もいる。真実はこうである。ソーシャルワークとは、一般の人が「空気」のようにあたりまえに受けている援助が受けられない人に対して、社会的責任の代行者としてそうした「あたりまえの援助」がすべての人に行きわたることを保証する仕事である。(中略)そうした仕事は、問いにマスコミによって「ヒーロー」のように扱われることもあるかもしれないが、多くの場合は、社会的責任の重い地味な仕事である。ソーシャルワーカーは「偉い」わけでもないし、「正義の味方」でもない。誰にでもできる仕事かもしれないが、誰かがやらなければならない仕事を、社会的責任を担って行っているのがソーシャルワーカーなのである。(p.30)


就活をしていて思うことなんだけれど、どことは言わないが血液事業を担ってる企業の志望動機なんかを見ていると、困ってる人を助けたい、という書き口が多くて閉口する(各言うわたしも、これを見て同じ流れでES書いたんだけどね!だから同罪!死にたくなる…)。福祉ってどうしても持てる者が持たざる者に慈悲として分け与えるというイメージがつきまとってしまう。
クィアのアプローチになじんできた自分としては、いや、持てる者が持たざる者に特権を返すのは当然のことで義務である、という考えの方がしっくり来るんだけど…。そういう福祉はなかなか難しいんだろうか。障害者差別や高齢者差別などについて不勉強なので、トンチンカンなことを書いているのかもしれない…引き続き考えていきます。