Buzzing noise.

散らかった頭の中をさらに書き散らかしています

KGCとの話し合いについての所感

KGCとの間に持たれた会議について、わたしが感じたことを少し書いておきたい。でも、わたしが具体的な話の内容をここで一部抜粋して書くことで、場に参加していない人たちに婉曲して事実が伝わることは嫌なので、どんな会話がなされたかという細かい内容は書かないように心がけて書いていきたいと思う。

わたしはこういう話し合いの場、というか議論の場は初めてに近くて、どのような雰囲気になるのだろうかという不安をかなり持って参加したのだけれど、まぁその不安は割と的を射たものだったと思う。
京大の学生の人数構成からして自明なことではあるけど、会議の参加者のほとんどが「男性」であったし、発言者もほとんど「男性」だった。怒号とはいかずとも、大きな声を出して牽制すると言うような雰囲気は、ミスコン賛成・反対どちらのひとであってもわたしを萎縮させた。その上で、「女性はこういう理由でこんな風に抑圧されている」という説明が「男性」たちによって為され、議論が進んでいき、わたしはとても焦ってしまった。
確かに、ジェンダーの非対称性によって女性が低い位置に立たされていることは事実だし、それは単なる考え方の問題ではなくて、構造によって規定されているものだ。それはわたしも理解はしているものの、わたしがあの場で一番伝えたい内容はそれではなかったのだと思う。身体や性を画一化して行こうとする暴力的な装置であるミスコンへの憎しみとも言えるような、もっと切実な思いだったはずだった。しかし、ある意味「理性的に」「論理的に」「女性が抑圧されているということを」説明する男性陣を前に、そんな感情的なことをどう表現できるというのか。そもそも表現して許されるのか。そんなことがぐるぐると頭の中を回り、わたしは冷静に考えることがますます困難になった。

「一部改変したミスコン」をやろうという流れになりかけた時は本当に焦ってしまい、発言をしたは良いものの、舌はもつれ、感情がどっとあふれてしまい、涙もついでにあふれそうになって困った。

女性を並べて品評会をしようとするミスコンというイベントについて話す場において、「女性」が、そして自分自身の言葉で語ろうとする人が、そもそも少ないということはわたしを絶望的な気持ちにさせた。

あの場においても間違いなくジェンダーの非対称性は通常通り機能しており、誰もその問題から逃れられない。そのことを認識したうえで参加していた人は果たしてあの場に何人いたのかな。