今週のお題「20歳」

今週のお題「20歳」

もう5年前。まだ5年前。

小学校、中学校にはあまりいい思い出はなく、不特定多数が集まる場所での振る舞い方がわからずテンパることが多いので、成人式には行かなかった。

振袖を着る気もなかったけれど、写真だけでも撮ってほしいと母に言われて、後日家族写真を撮りに行ったときに振袖を着た。あまり似合っていない気がしてつらかった。振袖を着た時の写真が実家に飾ってあるけど、あまり見たい気分にはならない。

女の子らしくふるまったり着飾ったりすることにすごく抵抗がある。昔も今も。でもかわいいものは好きだ。リボンのモチーフとかレースとか小花柄とかひらひらしたスカートとか。ロリータのようなお洋服も着てみたいなとひそかに思っている。

でも自分が何を着たいかより、周りにどうみられるかを気にする自分がいる。いや、周りが実際どう思うかではなくて、「周りにこう思われるだろう」という推測、自分が自分を品定めしているだけ、なのだけど。自分が着たいと思っている服を着こなせていない自分を見る瞬間が最高に傷つく。自分をありのままに受容するということが、20歳の時も、今も、わたしにとっては本当にむずかしいことだ。

 

お嬢様聖水という商品が普通に売られている日本という国が気持ち悪い

www.ojyosama.jp

 わたしが毎日乗り換えで使う駅に、この広告がでかでかと貼られているので非常に不愉快。期間限定だとは思うんだけれど、なかなか撤去されない。気持ちが悪い。

女性がターゲットのエナジードリンクという宣伝だけど、例えば使われている絵とか、そのネーミングとか、メタメッセージは全く別の物のように思う。

聖水が女性のおしっこを意味することぐらい、この世の中生きていればなんとなく知る機会があるものだ、と思う。セクシュアルな意味で、そういうものに興奮を覚える人がいるだろうことは想像できるし、性的な趣味は他人に危害を与えない限り自由だとわたしは思っているので特に否定しない。

だけど、公共の場にでかでかと書かれるのは全く別の話。パッケージに描かれた女性の絵は裸体だし、なんか若い感じの美少女だし。聞くところによるとドリンクの色は黄金色なんだとか。女性に対する勝手極まりないファンタジーを、「女性向けドリンク」というパッケージで隠して(隠れていないけど)女性たち若い女の子たちも目に入る場所でたくさん宣伝して消費する。その図々しさが本当に気持ちが悪い。これにOKを出してしまう企業が気持ち悪いし、それを店頭に置いてしまうコンビニが気持ち悪い。

女性がターゲットという宣伝に反して男性に大ウケであることに関し、メーカーは「意図せぬ方向の反響」とか言ってるらしいんだけど、本当かい、これ?

なんて、毎日通勤の行き帰りでもやもやと考えています。

早く撤去してほしいな。

 

北原さんのこんな記事もありました。

dot.asahi.com

郵便局には悪いけど、年賀状は来ないほうが心の平穏を保てる

一番年賀状を書いていた時がたぶん小中学生の頃。好きな人に住所を聞いて、年賀状のメッセージに何を書くかに延々頭を悩ませていたあの頃…わたしかわいかったなー。

大学生になって下宿生活が始まると、新しい住所をあまり周りに知らせなかったこともあってますます年賀状が来なくなったし自分も書かなくなった。

そして、今年1月1日に来たわたし宛の年賀状は、嵐のファンクラブからの年賀状、ただ1枚だったwww

 

両親宛に届く年賀状には、家族写真が載っていたり子どもや孫が生まれたという報告、子どもが有名大学に進学したという報告、子どもが結婚したという報告なんかが書き添えられている。

それを見て両親は、うらやましそうな様子を見せる。わたしや妹に対して、恋愛や結婚、出産を促すような言葉をかけてくる。

年賀状がもし日本の家族規範を強化するだけのものなら、年賀状なんて来ないほうがいい。年賀状にはマジョリティの考えるスタンダードな家族像が投影されている。それに沿えない自分は少数派であること、社会から祝福されないことをひしひしと感じさせられる。

まあ、年賀状でされていたような近況報告の場はFacebookみたいなSNSに移りつつあるので、年賀状が来なくなったところで特に状況はよくならないんだけどな。

嫌いで嫌いで嫌いで好きで


嫌いで嫌いで嫌い

わたしにとって文章を書くという行為は、いろんな意味を持ってきた。

中高生の頃は、ブログに中身のない文章を書いて、書くという行為によって癒されていた。自分の書いた下手な文章が好きだった。自分の文章がうまいと思ったことはないけど、自分の文章を読み直して自分の感情の動きをなぞるのが好きだった。

大学に入ってもしばらく、ブログに思いの丈をこぼす行為は続いた。でもそのうち苦痛になった。学術的な文章を書く訓練をしてこなかったから、自分の思うように論文やレポートが書けずとてもつらくなった。本来なら、レポートひとつひとつに真面目に取り組んでそのスキルを磨けばよかったんだと思う。でも、特に指導してもらえる環境もなく、ただ締切に追われてレポートを書き、単位をゲットしたらそれで満足するという日々が続いた。日記のような軽い文章を書くこと自体が億劫になった。自分の書いた文章の稚拙さばかりが気になってしまうようになった。

大学院に流れで進学してしまい、書くことへの苦手意識は決定的なものとなった。自分のもやもやとした問題意識を文章化していく、その格闘の時間にわたしは耐えられなかった。本当は、その格闘こそが必要な時間だったのだろうと今では思うけれど、当時は自分の力のなさに絶望してしまい、前向きに取り組むことができなかった。

就職して、また書きたいなという意欲が少し戻ったけど、自分の文章を読むと、なんでもない文章でも最初に「下手だなあ」と思ってしまう自分がいて、つらい。他の人の文章に対しては、別にそんな評価をせず読むことができるのに、自分の文章に対しては、できない。でも、やっぱり書くことでどこか心がほっとするわたしもいる。

所在ない

五連休なので京都に遊びにきたよ。

大学時代を京都で過ごしたので知り合いもちらほらいるし、彼氏も京都にいるのでってことで。しかし、連休2日目にして彼氏が出張で旅立ってしまうという悲劇。彼氏がいない彼氏の部屋にこんな長く滞在するのは初めてかもしれない。テレビもないのであまりに所在なく彼氏のiPadでブログを書く始末(なう)。

部屋の主がいない間に、色々と掃除などしてしまいました。キッチン、トイレ、風呂、洗濯機などなど。自分もそんな家事をちゃんとやる方ではないけど、彼ぴっぴにはもう少し頑張って欲しいなと思う今日この頃。でも、親からやり方を教わったことがないみたいだからしょうがないのかもしれない(彼氏の親に対しては、もうちょっと教えてもよかったんじゃない?男の子だからって何もできなくていい訳じゃないですよ?と心の中で思ったりするのですが←一生言えない)。わたしの家事スキルも、母親にチクチク言われた成果みたいなもんだから。

かく言うわたしも、実家に戻った今は何かと母親にチクチク指導を入れられる日々です。母親の長年の家事スキルの蓄積は半端じゃないのでちゃんと学んでおかねば。

 

 

高校の同級生と会った話

ついこの前、高校時代の友人3人で集まった。わたし以外の二人は既婚。一人は子どもがいる。大して気が合うわけでもないが、一応部活が一緒だったということから、マメなAちゃんが声掛けしてくれてたまに集まることがある3人なんだけれども。

仕事してる/してない、結婚してる/してない、子どもいる/いない、って、人生が分岐していく毎に疎遠になっていくってよく聞く話だけど、まさか自分もそのまんまのことを経験するとは。そのうちこういう経験をするであろうことは分かっていたけどしんどい。元々そんなに共通の話題がないだけに、もーほんとに興味の対象が違うことを痛いほど思い知らされる。

わたしは結婚という制度に対して以前から疑問を持っていて、結婚制度に疑問を持たない人とは話の出発点がまったく違う。結婚して幸せなひとや、頑張って結婚したいと思っているひとに対して、「結婚とは特権である」なんて話、しても唖然とされるだけだもん。自分の思想の問題だからしょうがないんだけど、だいたい職場の飲み会行ったらそういう話ばかりなので、もうどう切り抜けたらいいかわからないんだよなあ…

これから結婚式に招かれることも増えるだろうし、どうやって切り抜けてゆけばいいのだろうか。反婚女子は悩んでます。

涼を求めて

https://instagram.com/p/6H4yJ3k3sR/

日帰りで長野県の富士見台高原へ。両親のお出かけにくっついていった。

斜面にはササユリが整えられたかのように一定の高さで生えそろっていて、雲の合間からの日光が陰影を作り出して美しかったなあ。ここのところ仕事で凡ミス(しかし大事になり得る)が多く、自信をなくして気分も落ち込んでいたから、少しリフレッシュできてよかった。家にいると、やらかしたミスや先輩から怒られた時に投げかけられた言葉なんかをエンドレスで頭の中で反芻してしまうので、外に出て黙々と歩くのは精神衛生にもなかなか良いようだ。

それにしても、山の売店で売ってるフランクフルトはなぜあんなにおいしそうに見えるのだろう…