休日の出来事

<土曜日>

昼から美容院に行くつもりだったけど、両親の喧嘩に巻き込まれ母親とどうでもいい言葉尻をお互い捕えて激しい言い争い→お互い号泣からの美容院キャンセル。わたしはどうもいらっときた時に言葉を飲み込むことを5回に2回ぐらい失敗するので、こういうことになる。もう25歳なのに、親とこんな言い争いするなんて。これたぶん、親が死ぬまで一生続くんだと思う。

あとから父親に謝られ、慰められた。父に背中ぽんぽんされてなおさら泣けた。

 

<日曜日>

職場の同期ととあるケーキ屋さんに夏季限定のかき氷を食べに行った。実はちょっとかき氷よりケーキが食べたかったけど、かき氷を食べるっていう計画で約束したのにケーキを頼んで空気を乱すのは気が引けるので、かき氷を食べたよ。でも、よく考えたら、周りに気を使ったというよりは、自分がそういうところを一番気にしてるのかな。全体主義的な考えを持ってるのは自分のほうなのか。

かき氷とてもおいしかったです。

 

写真撮影に関して考えた断片

ハラスメントについて
・ハラスメントとは、不当な暴力のことである。
・多くの場合非対称な権力関係に基づいている。
・多くの場合男女という制度の上にのった非対称な権力関係に基づいている。
・Aという行為をされて、イヤだと感じたからと言って、Aが必ずしもハラスメントに当たるとは限らない。
・ある行為がハラスメントであるかどうかは、客観的な検討が必要である。
・客観的な検討を行うと、被害者(と主張する人)に事実関係を確認することとなり、そこで二次加害がおきるという主張がある。確かに、二次加害は起きうる。でも、事実関係の客観的検討は必要(その際、二次加害の程度が最小になるよう、配慮するのは当然のこと)。

写真撮影について
・写真撮影全般が暴力的だと言うことはできない。あまりにも乱暴な議論。
・個別の事例、文脈に基づいて暴力かどうかは判断すべき。
・写真撮影が暴力性を孕む事がある、には同意。
・今回の場合、過去に既にハラスメントが起きていること、人が多く暗いライブハウスでは性暴力の可能性が大いに想像できることから、暴力的に写真撮影が使われる可能性があるという主張には同意。具体的には、盗撮のこと。
・そこでどんな規制をすべきか、あるいはすべきではないかについては、人によって色々分かれるかも。
・写真撮影が暴力性を孕むことがあるから、そもそも写真は禁止にしたいという意見には共感はするが、必ずしも同意ではない。その場がどういう場所かによると思う。今回は時間がなかったので禁止(に近い措置)を取ったが、そのこと自体には賛成。
・撮った写真をどのように消費されるか分からないから、写真を撮らないでほしいという意見は共感はするが、同意はしない。心の中で性的に消費されてもそれを罰することはできないし、性的に消費すること自体がジェンダー規範、構造として内面化されていることも多いから、責めても何も変わらない。
・規制するよりも、なぜダメか、なぜイヤかを共有することで、より良い場を作る方向性を志向したい。

今回の事例について
・写真が暴力的かどうか云々以前に、ルール違反なのでアウト。
・事前会議が抑圧的だった、という意見には同意できない。自分の意見が通らなかった、または自分が少数派だったからという理由で「抑圧的」という主張は無理がある。
・議論を尽くしていなかった、という可能性はあるが、再度の会議を提案するなどの方向性もあったはず。

フェミニスト経済学会 2014.7.26

湯浅さんの話。
政治と運動の接合はどのようにして可能か。
・「聞く耳を持ってもらう」人を増やすことの必要性
・0点か、10点かの選択。
・生活困窮者自立支援法成立と、生活保護の切り下げは同時期。

大森順子さんの話。
・ネグレクトという言葉がそもそも母性主義的観点を含んだ言葉
・母子支援をしている人のほとんどが、母性主義的な考え方をベースにして活動をしている。(本当は、お母さんがそばにいてあげられたほうがいいけど、難しいからわたしたちが支援してあげないと、という考え)
フェミニストは子育てについて語らない。十分に考えてこなかったのでは。子育ての社会化を行おうという実験的取り組みが失敗したあと、それに続く運動や取り組みがない。対男性という関係では、一対多という関係性を考えてきたと思うが、対子供という観点では、ちゃんと考えてきていないことが問題。フェミニストの共同育児の取り組みにおいて、「そうはいってもやっぱり自分の子供が特別」という感情をどう捉えるかの検討が為されていない。
・子供がいない人、子育てと直接関係のないところにいる人を、子育てにどう取り込んでいくかが今後の課題。


コメンテーターの申さんの話。
・本題とはずれたところの話なんだけれど、日本におけるフェミニズムに対するバックラッシュの影響は絶大、という話がおもしろかった。お茶女でジェンダー研究をしている学生34人に、フェミニズムジェンダーの関係性について意見を聞いたそう。そうすると、ほとんどの学生が、ジェンダーという語には中立なニュアンスがあるのでいいが、フェミニズムは偏っていて違和感がある、ジェンダーフェミニズムって関係あるんですかという人までいたと。34人中、自分がフェミニストだと公言した人は4人のみ、全員海外からの留学生だったそうで。
ヒドイナー!という感想しか持ちえないwジェンダー勉強しててフェミニズムに理解がないって勉強してないと同義じゃないのか!?

湯浅さんは、わたしがこれまで話を聞いた人の中では、ひびのさんと同じぐらい話が明瞭で分かりやすい人なので、聞くのがおもしろかった。
大森さんの話は、新しい発見がたくさんあり、とても勉強になった。

『社会的構築主義への招待ー言説分析とは何か』

修論でも、卒論に続いて言説分析を方法論としてとることになりそうなので、今さらながら読んでいる。今思うと、こういう本一冊も読まずに卒論書いたんだからそりゃひどいものになるに決まっている…
構築主義をこんなに分かりやすく噛み砕いて書いている本はなかなかないのではないだろうか?

知識社会学と言説分析の違いとか、最低限のこと分かっておかないと恥ずかしいことにぜったいなる。勉強しよ。

最近考えていること

ようやく修論に関して本腰入れて考え始めて(この時点でダメ院生)、テーマもなんとか定まってきた感じ。来週の発表で、ダメ出しされなければ、多少軌道修正しつつもこの路線でいけるのではないかと踏んでいる。
テーマなんだけれど、卒論でやったことの続きに戻ってきた感じで、なーんだ、結局やりたいことこれだったんじゃん(それなら引き続きちゃんと勉強しとくんだった)という気持ちです。
身体は長らく、わたしにとっての鬼門だったと思う。フェミに「救われた」という最初に感じたのは、やっぱり身体に関するコンプレックスを、今までに積み重ねられてきたフェミニズムの議論がある程度払拭してくれた時だった。
わたしは、こんな内弁慶で、プライドが高くて、勤勉な努力が苦手な自分でも、そんなに嫌いじゃないけど、身体に対する嫌悪感はけっこうひどかった。女性の身体に対する世間の評価は不当に厳しいものだけど、中高生の時のわたしはその世間の視線を内面化して、さらに厳しいものに変化させて自分を見ていたから、もうそれはひどいものだったと思う。ミソジニーの内面化、というのかな。
女性としての自分を固定化させて、世間の(マジョリティ男性からの)視線で自分を評価して見下していたし、性差をびっくりするほど深くて大きいものだと考えて、男性にも必要以上に距離を置いていた。
その不自然さというか、息苦しさは変だとずっと思っていたけど、それを言語化することはできなくて、大学でようやくその言葉を得ることができたと思う。
わたしの身体はわたしのものであって、他人から評価されるものではないし、尊重されるべきものだ。そんな単純なことも、気づくのが難しいのが社会に根付いたジェンダー規範の影響の大きさを示しているのかなと思う。